にっこにこの新しい未来

 時計のアラームが鳴りだす寸前、矢澤にこは半ば無意識に手を動かしてスイッチをオフにした。
目をこすりながら手元の時計を見ると時刻はまだ朝の六時前だった。窓からは朝日が差し始めていて、外からはまだ行きかう車の音も聞こえず小鳥の群れが騒がしく鳴く声だけが聞こえる。
客観的に見て、春日和の気持ちの良い朝だった。

 にこはモゾモゾと動いて温かい布団の誘惑から抜け出すと、猫のようにひと伸びする。
寝ぼけ眼で洗面所に行って顔を洗って目を覚ますと、台所に行ってエプロンをつけたにこは家族全員分の朝食と、昼のお弁当の下ごしらえを手慣れた様子で始めた。
居間にあるテレビはボソボソと今日の天気やニュースを呟いていて、にこが包丁をつかうトントンという小気味いいリズムが重なるように居間に響いていた。
 朝ごはんと学校に持っていくお弁当を作り終えて、にこが居間をのぞきこむと、ちょうどテレビでは七時前の星座占いが終わった所だった。
調子に乗っていつもよりおかずの品数を増やしたせいか、のんびりと朝食を取っていると電車の時刻に間に合うかギリギリの時間になっていた。
にこは大急ぎで家族を起こしてから、朝食をかきこむように食べると慌てて玄関を飛びだした。
「いってきまーす」
鉄製の扉がガチャンと大きな音を立てて閉まる。鍵をかけたことを確認してから、にこは団地の薄暗い階段を2,3段飛ばしで駆け降りて通学路を走った。

 午前中の授業は、新学期が始まったばかりということもあって簡単な内容で、時間は穏やかに過ぎていった。
昼休みを告げる鐘が鳴る。授業を終えた教師が教室から出ていくと、教室は一気に昼休み特有の弛緩した雰囲気に包まれた。
教室の生徒たちは親しい友人と話したりしながら、ざわざわと仲の良いもの同士で机を固めて昼食の準備を始める。
ようやく季節が春になっていることに平均気温も気がついたのかポカポカと暖かかったので、屋上や校庭で昼食をとろうと教室を出ていく生徒の姿もちらほらとみえた。
にこは誰とも会話せず、ひとり鞄から弁当を取りだし昼食を取ろうとしたとき、唐突に後ろから声をかけられた。
「にこっち、一緒にお昼ごはん食べに行かへん」
うさんくさい関西弁から声をかけてきたのは東條希だとわかった。
「ふん、お断りよ。私、ご飯は一人で食べるのが好きなの」振り返って応じる。
「またまたー。にこっちは素直じゃないんやから。あんまり意地をはるとワシワシマックスしちゃうでー」
希が両手をあげて近づいてくる。
これ以上意地を張ると、教室でのクールなイメージが崩れてしまうかもしれないと思って、にこは仕方なく同意することにした。
「わかったわよ、仕方ないわねー」
少し嬉しい顔になりそうなのをなんとか我慢して、それを隠すように希から顔をそむけた。
 
 希の提案で、天気がいいので昼食は教室を出て屋上で取ることになった。希が屋上に通じる階段を上がっていくのをにこは後ろからついていく。
いつみても希のけしからないスタイルは気に入らない。高校三年生になっても、ちっとも成長しない自分の体と比較してにこはそれと知れないようにがっくりと肩を落とした。
屋上につくと何組か昼食を取っているグループはいたが、運良くまだベンチには空きがあって座ることが出来た。
二人並んでベンチに腰をかけてお弁当を広げる。
「お、にこっちのお弁当美味しそうやね。また料理うまくなったんとちがう」希が弁当箱をのぞきこんでくる。
「あげないわよ、希の弁当はあいかわらず統一性がないわね」すこし呆れた顔で言う。
「毎日風水と八卦を見て内容を決め取るんよ。それはそうと、にこっち、アイドル研究部で一年生の勧誘はしないん」
にこは少しどきりとして、それを悟られないよう素早く会話を返す。
「にこのレベルに付いてこられるアイドル好きなんていないのよ」澄ました風に言う。
「そうはいっても、一人で部活なんてさみしいやろ」
「そんなことないわよー、やることだっていっぱいあるし。アイドルの実地取材でしょー、その感想を書いたりもしないといけないし―――」
「たまには素直になったほうが良いよ、にこっち」
「私はいつだって―――」
「でも大丈夫や」会話を遮って希が言う。
希はどこからかタロットカードを取りだして、その一番上からカードを引くと目の前に差し出した。見ると男女が向き合っている絵に見える。
「またスピリチュアルがどーとかこーとか言うつもりなの」
「ちがうよ、占いはきっかけを与えてくれるだけのもの。どうするかはその人次第で、私はそれを助けるだけだよ」
「もう少ししたらきっと、にこっちにも新しい居場所ができると思うよ」希は笑顔で言った。

 午後の授業が終わり、放課後のチャイムが鳴った。にこは誰とも話さず教室を出ると、これからどこに遊びに行くか楽しげに相談をしている生徒たちや、部活に向かう生徒の間を縫って部室まで歩いた。
部室のドアを開ける。窓にはいつもカーテンが引いてあったので、部屋は暗く沈んでいた。
にこが入口横にあるスイッチを押すと電灯がつき、人工的な光が部屋を照らし出す。部室の両サイドある棚はアイドルグッズや本などが詰め込まれ溢れだしそうになっている、部屋の中心には長い会議テーブルが置かれていて、壁には各地のスクールアイドルのポスターが所狭しと張られている。それなのに部室の中はどこかガランとした印象があった。
 にこはカバンを机の上に放り出すと、いつも決まって座っている席について、部室に備え付けのデスクトップを起動させた。
ブラウザを立ち上げて毎日チェックしているアイドル情報系のサイトを巡回する。しかし、いつもは時間を忘れてしまうほど楽しいその時間も今日はどこか虚しく感じられた。
「はぁ…」知らずにため息が漏れる。
窓の外からは部活をする生徒たちの掛け声が遠く聞こえる。希に言われた通り、アイドル研究部として活動を続けるなら新しく1年生を勧誘する必要があることはわかっている。
でもにこは勧誘活動する気分にどうしてもなれなかった。
「…今日はもうやめにして帰ろうかな」
 
 にこが部室を出ると、すでに太陽は沈みかけていて、廊下はあかがね色に染まっていてた。
窓の外の空だけがまだ冬の名残を残して高く、夕日色と青色のグラデーションになっている。
廊下に、にこが歩くコツコツという音だけが響く。にこが1階に下りると掲示板の前でなにやら騒いでる三人組の女の子が見えた。
「ここに貼っておけば、きっとかっこいい名前、応募してくれるよね」元気そうな女の子が言う。
どうやら、なにかのポスターを貼っているらしかった。
「ほのかちゃん、いいアイディアだと思う」別の女の子は満面の笑みでそう言った。
「まったく、ほのかは人任せすぎます」あきれたような調子でもう一人の女の子が言う。
そんな会話をしながら掲示板にポスターを張り終えると、三人は二年生の教室のほうに歩いて行った。
にこは傍から見ていてもわかる3人の仲の良さが少し気になり、掲示板の前まで歩いて、さっき3人がいたあたりを覗いてみた。

《音ノ木坂スクールアイドル結成!グループ名を募集中です!!》

見た瞬間心臓をキュッと掴まれた感じがして、口の中に苦い思いが広がった。
自分が失敗して失敗して失敗したスクールアイドルを始めようとしている生徒がいる。
今でもメンバーがひとり、またひとりと去っていく光景は覚えていた。それは学校のどこにいても不意に襲ってきて、思い出すたび、にこはこみ上げてくる辛さに耐えなければいけなかった。
しかし、自分でも驚くことに、それを上回るくらいポスターを見た瞬間にこみ上げてきた想いは、嬉しさだった。もしかしたら微笑んでいたかもしれない。
この学校に自分以外にアイドルが好きで、スクールアイドルをやろうしている女の子がいることが嬉しかった。
あの3人が互いを信頼しあって絆でつながっていることは一瞬見ただけで伝わってきて、そのことも心に引っ掛かっていた。
これからやることができた。という想いがにこの胸の中におちてきた。
アイドル研究部としてあの三人が作るというスクールアイドルグループを監視しなければいけない。にこは急に目の前が開けたような錯覚を覚えた。
「よーし、さっそくあの3人の素性を調べるわよー!」にこはひとり空に腕を突き出して叫んだ。

その後、ストーキングを繰り返すうちに、にこは穂乃果達が作ったμ'sに引き込まれて新しい居場所を見つけることになるけれど、それはまたべつのお話。