京騒戯画をみた感想――鏡都はだれを映し出す鏡なのか


京騒戯画10話見終わりました。いやぁ、良い作品でしたね!(まだ復習編あるけど・・・)
自分はテレビ放送から視聴をはじめたんですが、0話の爽快感あふれる演出にやられてしまって視聴継続を決意しました。
それから1〜9話とSFテイストを混ぜながら、最近の深夜アニメには少ない家族の関係性についての話を丁寧にやっているなーと見ていたんですが、
10話をみて「あれ?この作品ってもっと面白いことをやっているのでは?」と思いつき、いま記事を書いています。
その思いつきって何かというと
作品の内と外(現実)の状況がグチャグチャに混ざり合いながらもリンクした作品だったんじゃないか?
ってことです。ややこしいですね。以下で説明していきます。

京騒戯画という作品の身の上話

まず現実(外)での京騒戯画という作品の遍歴が結構特殊なんですよね。
じぶんもTVシリーズ見始めたので特別詳しくはないのですがwikiによると、
最初はネット上で公開される単発の30分アニメとして作られ、好評を受けて第2弾が10分程度の短編アニメとして作られネット上で公開されたらしいです。
そして現在テレビで放映されている『京騒戯画』は第1弾と第2弾を再構成して、1つの物語としてTVシリーズとして放映されているものらしい。
またテレビシリーズの第0話「予習編」はネット上で公開された第1弾を編集した物のようです。制作上いろいろ紆余曲折あったんじゃないかな・・・と想像してしまいますね。
京騒戯画とは (キョウソウギガとは) [単語記事] - ニコニコ大百科


ここで大事なのは『京騒戯画』制作スタッフにとってTVシリーズはまさしく「やり直し」であっただろうということです。
そして『京騒戯画』は「ある一家を巡る愛と再生の物語である」ので再生という要素が現実とリンクしていると言えます。

メタ的なシリーズ構成

実質TVシリーズ1話といえる第0話はネット上で公開された第1弾が編集されたものですが
その内容はテレビシリーズの7話までのお話のダイジェスト版にもなっています。
よってテレビで各話が放送されるたびに「予習編」と同じ場面が登場するんですが、キャラクターの台詞や状況などが微妙に変わっているんですよね。
これは「編集」を視聴者に強く意識させますが、それがTVシリーズになったという現実(外)の要因によるものなのか、はたまたアニメの中で歴史改変がおこっているのか視聴者には判断できません。

ただわざわざ0話で「予習編」をやったこと(予習が出来るということは未来が確定しているということ)、
5.5話で「京都実録編」という実写をやったことを考えると制作スタッフが現実と虚構をごちゃ混ぜにしたメタを狙ってやっている可能性は高いと思います。

また各話のなかで過去や現在に時間軸がポンポン飛ぶ作りもそれぞれは断片であり、それらが再構成されたものという作品の構造を説明しているとも取れます。

鏡都は作り手を映し出している

京騒戯画』ではもともと12個の並行世界があり
認められていない13番目の並行世界である「鏡都」を舞台に話は進行します。
この複数の並行世界が存在するという設定も、元々はネット上で公開された作品だったものがTVシリーズとして再構成されている現実の『京騒戯画』の在り方とうまい具合にリンクしています。

またメタ的に考えると「創造の力」をもった神様で生命を与えたり鏡都をつくったりできる明恵上人は『京騒戯画』の制作スタッフの依り代となるようなキャラクターとも考えられます。
物語の舞台となる鏡都をつくるということは、このアニメ自体を作ることにも意味合い的に重なってくることですからね。
「創造の力」が数珠という複数の球を束ねたもので表現されていることも注目に値します。

そういう視点で『京騒戯画』10話を見てみるとめちゃくちゃ面白いんですよ。

キャラクタと制作者 自己肯定の物語

僕が10話で面白いなっておもったのは明恵とコトが神様のいる高天原から、月の様なところにいる上人と古都のもとへ向かうシーンです。
明恵とコトがいままでの話の断片映像がバーッと浮かぶ空間に飛び込むシーン。

これは明恵とコトがこの場所に来るまでの道筋でもあるし、このアニメで視聴者の僕たちが見てきたことを映像的に表現しています。つまりこの空間が『京騒戯画』というアニメそのものなんですよ。
それをみたコトは「なんだこりゃ!」って笑顔でつぶやいて
明恵は「わけわかんねぇ」って叫びます。

京騒戯画』って「わけわかんねぇ」作品なんですよ、きっと。
そしてそんな光景をみて考えたコトが次のシーンで発した台詞が僕にはこんな風に聞こえちゃうんです。
「もう少し一緒にいられないかな。なんだかんだ今まで『京騒戯画』作っちゃったんだし、せっかくTVシリーズも放送できたんだし、やめるなんていつでも出来るんだしさ。嫌なこともあるかもしれないけどこのアニメ作って良いよ。ただの我侭なんだけどさ」
っていう制作者の声に聞こえるんだよー!!!(病気っぽい

そういってコトはアラタマでいままでの『京騒戯画』の世界をぶっ壊してリブート(再構成)します。このシーンもまた新しいものを作ろうという制作者の想いが伝わってきてめちゃアツくなりました。
そして物語の中で物語をぶっ壊すってのはやっぱ面白い。アラタマでガシャーン!とやるのも爽快感があって好きです。
アラタマでぶっ壊してるのは「鏡」でありテレビ画面の液晶でもあると勝手に思っていますw

そして明恵上人(=制作者)だという視点に立つなら、上人がじぶんの存在理由を確認するシーンは非常に重要です。
「消えないで、先生」とコトに訴えられ、上人はそこに愛があることを感じて「うん」と返事をします。すると『京騒戯画』は上人が存在してもいい世界に再構成されます。
それでもまだイジけてる上人に父親である神は「いるだけじゃいかんのか?理由としちゃそれで十分よ」と諭します。

このあとの上人が自分の存在を認めて笑顔を浮かべるシーンでは、
制作者もこの作品を認めることができたのかなー、でもそれってすごい自己完結してるよ!!と思えてとても面白かったですww
でも『京騒戯画』がすごいのはメタ視点をもって見ると「在ってもいい」と上人が納得することで『京騒戯画』という作品自体が「在ってもいい」ことになるところです。
キャラクターが自己肯定すると同時に作品自体が作品を肯定(救済)してるんです。
これってすごいです。そのような構造のおかげで『京騒戯画』という物語はきれいな球体のように閉じているように思えます。

まとめ

僕はこの作品があってほんとに良かったなと思います。もちろんほかのたくさんのアニメについても同様です。
「在るだけでいい」というメッセージは優しいもので、まず在ることで偽物の世界でも、偽物の家族でも、どのようなアニメ作品でも、そこに関係性が生まれて、愛が生まれるっていうのは希望があって好きです。
スタッフのみなさんには『京騒戯画』という作品を生み出してくれた感謝でいっぱいです!